幼き日々の追憶 SL”はやぶさ” 、コーラ、ピアノ

仏法に於いて"永遠の生命観から見るならば人の一生は瞬きをするのに等しいものだ"と、あっと言う間に過ぎ去ってしまう!

と有るのですが私の年齢に達すると、成る程!そうだ!と納得です。

 小学校に入学迄は度々、上京

私は鹿児島県、薩摩半島で生まれ育っていますが母は東京が故郷です。

当時は鹿児島の地で母と二人きりで過ごしていました。

物心ついてから小学校に入学する迄は何度か鹿児島から東京へ出掛けます。

 

母が「起きなさいよ!今日は東京へ行くんだよ!」と、私を起します。目を覚ますと未だ夜が明けず外は真暗です。

現代では鹿児島、東京間は飛行機で、ひとっ飛びですが当時は汽車に乗り一昼夜を過ごし、グッタリ疲れる長旅が当たり前の時代です。

 

当時の列車は今で言うSLというのでしょうか?

石炭を燃やした熱で水を沸騰させて発生した蒸気の力で走る蒸気機関車なのでした。確か私の幼い頃の記憶ではSLの"はやぶさ"だったと思います。

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当時の列車は夏場でも現代の様に冷房がある訳でも無く窓を開けているので石炭の燃えカスが窓から入り込み東京駅へ着いた頃には顔や体はススだらけでした。

 

東京駅に到着するやいなや、母は洗面所へ駆け込みタオルを水道水で濡らしススだらけになった顔や体を綺麗に拭いてくれた事を思い出します。

 

一週間ぶりに鹿児島へ帰り、夜になると真っ暗だった我が家に電灯がともり、近所の人達には帰って来た事が一目瞭然です。

すると、いつも一緒に遊んでいる近隣の幼い遊び友達が「お帰り!」と5・6人が顔を見せてくれます。

 

母が東京からのお菓子を数種類、一掴みづつ包装紙に包み、お土産に手渡します。

皆んな喜んでくれていました。

 

母のピアノへの思い入れ 

母が3歳の時に母親(私の祖母)が亡くなり幼ない母の面倒を見るのが大変だった父親(私の祖父)は母を伯母の家に預け面倒を見て貰っていたのでした。

 

預けられた伯母の所には、もう既に大人になっている従姉妹がいて当時、ピアニストになっていたのでした。

母は日々、毎日、ピアノの音を聴いて生活していますが居候の身なのでピアノのレッスンを受ける立場では有りませんでした。

 

私が小学一年生になった時、母が近所の中学校の音楽の先生のお宅へ私を連れて行きました。

「この子を宜しくお願い致します」と、ピアノを習う事になったのです。

母は母なりにピアノに対する強い思い入れがあり私に習わせたかったのでした。

 

Sちゃんとの楽しい日々 

その後、クラスで一番に仲の良いSちゃん!

Sちゃんも御母さんの希望で小学一年生から私と一緒にピアノを習い始めました。

 

一緒にレッスンを受けて終わると私の家の直ぐ近くにある海や川で遊びます。

"あさり"や"しじみ"を取っては家に帰ります。

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ある夏の日、遊んで家へ帰ると母が冷蔵庫の中から冷やした飲み物をSちゃんと私に飲ませてくれました。

因みにこの時代の冷蔵庫と言うと今の様な電気冷蔵庫ではありません。

氷屋さんから大きな塊の氷を配達して貰って、氷冷蔵庫として売っているボックスの上段に氷を入れて下段に食品を入れて冷やす氷冷蔵庫なのです。

現代の冷蔵庫程、しっかり冷やす事は出来なかったと思います。腐敗を避ける程度だったのかもしれません。

私が小学、3年生の頃、初めて現代の様な電気冷蔵庫を使い始めました。

初めての味! コカ・コーラ 

川遊びから帰って来たSちゃんと私に母が飲ませてくれた飲み物の話に戻りますが、

今迄の飲み物とは全然、違う色、香り、味で、ボトルの形も変わっています。

 

私は「お母さん、これ、何?」

母「これはねー、アメリカのサイダーだよ!」と、母のアメリカのサイダーという言い方も今、思うといかにも時代を感じます。

これが最初のコーラとの出会いでした。

 

それ迄は炭酸飲料と言えば無色、透明な「三ツ矢サイダー」が主流でした。

 

近所の酒屋さんへ時々、止まる真っ赤なコカコーラ•ボトラーズの車が当時は印象的でした。

ピアノは買って貰えないSちゃんと私 

又、ピアノの話に戻りますが、何せ母と二人っきりの母子家庭、ピアノを買って貰う余裕は有りません。

買って貰ったのは電気オルガンでした。

流石に小学高学年、中学になると鍵盤が足りません。

Sちゃんも私と一緒でオルガンで練習をしていました。同じ学年で、もう一人ピアノを習っているKちゃんだけはピアノを買って貰っていました。

当時、土曜日は半日だけ授業が有り昼食は摂らずに下校です。

 

土曜日になると、いつもSちゃんと私はパンと飲み物を買って自宅には帰らずKちゃんのお宅へ直行でお邪魔するのです。交代でピアノの練習をさせて貰い外が薄暗くなるとお礼を言って帰ります。

それを高校を卒業する迄させて頂きお世話になっていました。

Sちゃんはスタンウェー、私はヤマハを!

  その後、Sちゃんは公務員となりピアノを購入しました。確かヤマハ(YAMAHA)では無くスタンウェー(STEINWAY)だったと思います。

私は美容師となり日々、忙しくピアノを弾く事も無くなり時々キーボードを弾く程度ですが音楽に対する熱い思いは持ち続けていました。

自身の為にピアノを購入する事はありませんでしたが某所にピアノを寄贈させて頂く事にしました。このピアノで喜んで貰える方がいたら私も幸せな気持ちになります。

 

某所へYAMAHAのグランドピアノを搬入 

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YAMAHAの方の話だとヨーロッパ製のピアノ線を使用している為、ピアノの音色がグレードアップされているとの事でした。

 

突然のSちゃんの死 

小学一年生から中学、高校と私が美容師になる為に地元を離れる迄、ずーっと一緒に居て一番、多くの時間を共有した最良の友でした。Sちゃんも結婚し子供さんも有ったのですが今から15年程前に自ら命を絶ってしまいました。

 

私は大きな衝撃を受け昔の様に鹿児島で近くに居てあげる事が出来ていたなら思い止まらせる事が出来たんじゃないか?と色々と思い巡らし、やるせない思いでした。

その当時、私自身もお店のお客様から「どうしたんですか?大分、疲れてますね!いつもと全然、様子が違いますよ!」と言われ、傍から見ても判るほど一ヶ月間位は心身共に、変になりました。

苦しさの為、大好きな音楽さえも忘れる日々

 若い頃の私は美容師の道を目指した為、日々、技術習得に明け暮れ必死の毎日でした。

その後の人生に於いても思いもよらない事に遭遇し自身の努力だけではどうしようもない運命、宿命的なものに翻弄される時期もありました。

誰でも生きている限りは思いもよらない事に遭遇するものです。

時には自分の人生、もう、これで終わるのでは?二度と這い上がる事など出来ないのでは?

そんな思いに駆られる事も何度かありました。

 

暫くの間、苦しさに支配され、あれ程、大好きな音楽さえも全く耳に入らない時期もありました。

余りの苦しさに音楽どころでは無い!音楽なんてどうでも良い!そんな心の状態の日々が暫くの間、続きました。

 

その後、徐々に自身の心が少しずつ強くなっていく事により、支配されていた苦しさを「負けてたまるか!」と逆に見下ろして行ける心へと変化し始めました。

 

そうなると、やっと以前の様に周りから好きな音楽が耳に入って来る様になりました。

それだけ心に余裕が生まれ以前の様に音楽を耳にして、心が動いたり、感動したり出来る様になりました。

「そうだ!大好きだった音楽の事、すっかり忘れてしまっていた!!」とハタと気がつきました。

小学生の時に音楽に目覚め心、ときめいた曲を始めとして現在まで色褪せずに心に残っている曲、今、現在ときめく曲やアーチストの事等をブログ、超初心者ですが書いてみたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。

 

今回のブログのテーマに追憶の文字が有る

ので、この曲が頭に浮かびました。

1973年のアメリカ映画「追憶」のテーマ曲です。バーバラ・ストライサンドとロバート・レッドフォード主演、1974年ビルボード誌シングル年間ランキング第一位を獲得

歌っているのは主演のバーバラ•ストライサンドです。


追憶 [日本語訳付き]   バーブラ・ストライサンド